桐生駅前を東西に走る末広通り沿いで、 大正レトロな雰囲気を醸し出し、近代の桐生の趣を感じさせるのが、大正8年(1919)に建てられた「桐生倶楽部会館」である。
木造2階建て寄棟造で、橙色の瓦屋根やモルタル塗りの外壁、列柱のある玄関ポーチ、小さな切妻屋根をのせた煙突など、日本で最初のスパニッシュ様式の意匠など洋風な外観は、近代の桐生人のモダンな生活ぶりを今に伝える。
平成8年に国登録有形文化財、平成27年に桐生市重要文化財に指定されている。この会館は桐生市の歴史的遺産であり会館を次代に引き継いでいくことは、我々の大きな使命である。
この会館を拠点に様々な活動を行っている「桐生倶楽部」の母体は、明治33年 (1900)に設立された「桐生懇和会」である。
その活動が活発になると、桐生を訪れる名士や有志との交流の場が必要となり、日本最古の社交機関である交詢社などの影響を受けながら、大正7年(1918)7月7日に正式に社団法人桐生倶楽部が発足し、桐生懇和会は発展的解消を遂げ現在に至っている。
倶楽部設立資金や会館建設資金は森 宗作をはじめ、ほとんどが有志による寄附金であった。建設は桐生出身の野間清治を仲介し、著名な設計土であった清水巌に依頼して行われた。
桐生倶楽部は、当時の地方都市としては 珍しく、織物業を中心とした先進的な地元経営者の情報交換や交流の場、都会から訪れる人達をもてなす社交クラブであったほか、戦後には、作家の南川潤や坂ロ安吾らの参加もあり、文化の向上にも一役買った。
当時桐生町と周辺町村の有力者が相集い協力して鉄道や銀行の誘致、電話設置等に尽カ、桐生発展の基礎をつくった。
以来創始の志を継承し、社員相互の親睦、公益に関する考究を目的とした文化活動の拠点として、桐生市はもとより近隣地区の文化の発展に尽くした。
〇桐生倶楽部の管理と運営
創立当初から残る特徴的な慣例として、 新入社員の入会の賛否を決める議決方法 がある。理事会において、「決」と記された袋に、入会に賛成なら白の碁石、反対なら黒の碁石を入れ多数決を採るというものである。また、近年までは、社員になれるのは男性のみであったが、現在は女性にも開放され、今や女性理事もいる。会館の使用にあたっては、社員の紹介がなければ 使用することができない。また、会館の南に管理人住居があり、当初より現在まで親子3代にわたり永井家が管理人として住み携わっている。
桐生倶楽部の管理•運営は創立時から、全て自主財源で賄い、今でも会費により行 われている。現在も桐生を代表する有力者が名を連ね、社員同士の茶の間として様々 な活動を行う。当初の頃から続く月例会や 互礼御餐会をはじめ、園遊会やクリスマス会など年中行事も盛んに行われている。
—方で、時代に合わせ、一般公開し、活動形態も変わりつつあるが、桐生懇和会の創始の精神が変わらず息づき、高貴な雰囲気を今でも醸し出している。
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