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会員名簿

 

上棟式の写真 、今は町中だが、当時の周囲は畑だった様子と遠くに山が見える

「郷土の発展はやがて自己の発展である」は、森宗作(宗久)の言葉である。桐生の近代を語るときに、政治、教育、経済、産業など、広く振興策をはかり、つねに推進役を担った有識者、産業人の団体「桐生懇和会」の役割を忘れることはできないが、1901年の会誕生以来、森はずっと指導的立場にいて、この信条を貫いた。
 懇和会の働きによって桐生に高等教育機関(工学部の前身)が開校することになった。「やがて多くの教職員がやってくる。当地には居住する場所も少なく、さらにはこうした人たちが懇談したり慰安したりする場所もない。来桐される名士やわれわれ有志の話し合いの場としても、ぜひ倶楽部ふうのものがほしい」と、この思いを後進の実業家、金子竹太郎や前原悠一郎に伝え、その後押しとして多額の私財をまっさきに提供したのも森だ。これが桐生倶楽部設立の動機付けとなったのである。
 社員総会が初めて開かれたのが1919年。第一次大戦がもたらした好況、そして戦後の恐慌と起伏の激しい世界情勢と、国内では大正デモクラシーの強烈な光が暗い影も落とした時代である。こうした世の中へ、地域振興を目的に掲げ、桐生倶楽部は船出した。
 11日、その倶楽部の創立90周年式典が、恩人の森、設立に奔走した前原と初代理事長金子、そして数々の功績に彩られた歴代理事長の肖像が見守る2階の大広間に、大勢の来賓と社員を集めて開かれた。登録文化財の指定を受けている会館は、設立4年目に関東大震災を体験し、昭和改元、世界恐慌、満州事変、五・一五と二・二六のクーデター、日中戦争、太平洋戦争と、時代の空気を取り込みながら、また、戦後も驚異的な経済成長をとげた日本の姿を見続けながら、星霜を重ねてきた。客間であり、憩いの場であり、ここで封切られた情報がどれだけあったことか。
 時代の風を受けながら、地域における倶楽部の位置づけも変わってきて、現在は文化的活動を重ねながら、伝統の象徴である会館を今後どのように維持していくべきか、それが大きな課題であると認識し、一方で創立以来の不文律を改め、女性会員に門戸を広げるなど、変化の受け入れも進んでいることが、式典であいさつした阿部高久理事長によって示された。そして、市民の手で生まれ、市民の手で守られてきたものを、これからも市民に託し、伝統をつないでいきたいと、抱負も語られた。
 崇高な精神を軸にして、民間の立場から、地域のために力を尽くしてきた。それを風化させてはならないと、90年、人は変われども、連綿と努力してきた歴史。ほかには類をみない活動であり、桐生が誇り得るものの一つである。

   

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