「桐生倶楽部所蔵の絵画一帝展の作家たち」 

 

1 官展(官設美術博覧会)の歴史

 (1)文展(文部省美術展覧会);明治40年(190710月、上野公園内元東京府勧業博覧会跡で第一回文部省美術展覧会が開催。当初は第一部(日本画)、第二部(洋画)、第三部(彫刻)の三部門。大正7年(1918)の12回展まで毎年秋に開催。

 

 2)帝展(帝国美術展覧会);大正8年(1919)帝国美術院の創設に伴い、文展は同院が主催する帝国美術展覧会となり、昭和9年(1934)の第15回展まで開催。(大正12年は関東大震災のため開催せず。)第8回展から美術工芸部門が新設、創作 ,版画が洋画部門に加わった。

 

 3)新文展(第二期文部省美術展覧会);昭和10年(1935)文植松田原治による帝展改組が断行され、昭和11年奉に「改組第1回帝展」、秋に「昭和11年文芸」が混乱の中開催。昭和12年からは再び文部省が主催する斯文展となって昭和18年の第6回展まで開催。なお、昭和16年(1941)には「紀元2600年奉祝展」、昭和19年(1944)には「戦時特別展」が開催された。

 

 4)日展(日本美術展覧会);戦後の昭和21年(1946)春、文部省主催の日展として再発足。犬同年秋、第2回展。以後毎年秋に開催され、昭和32年(1957)の第13回展まで続く。第4同族は日本芸術院の主催で第5科として書道が加わり、第5回展から日本芸術院と日展運営委員会とめ共催となり純然たる官展ではなくなった。昭和33年(1958)からは社回法人日展が誕生し日本芸術院と分離、完全な自主的美術団体となった。

 

  ※社団法人日展は、昭和43年の第11回展まで続き、改組に伴い44年に改組第1回日展、以後再び日展と称して今年第44同を迎えている。なお、本年から公益法人制度の改革に伴い、「公益社団法人日展」となった。

 

 2澗生倶楽部の帝展作家たち

1)朝倉文夫;明治16年(18833月2日〜昭和39年(1964418に大分県に生まれる。明治35年、竹田中学を中退して上京、実兄の彫塑家・渡辺長男に彫塑を学ぶ。翌年、東京美術学校彫刻科選科入学。同校卒業後研究科に進学、明治 42年修了後、谷中にアトリエを新築、これが後の朝倉塾となる。明治41年の第2回文展で二等賞受賞後、第8回展まで連続7回受賞し、彫刻界の麒麟児として注目される。第10回展から審査員。大正13年帝国美術院会員。大正10年から昭和19年まで東京美術学校教授。昭和19年帝室技芸員。戦後も日展の審査員・ 顧問となり、22年から芸術院会員。 23年には文化勲章受章。

 

 2)南薫連;明治16年(1883721日〜昭和25年(19501月6日。広島県に生まれる。明治35年、広島第一中学を卒業して上京、東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助教室に学ぶ。明治40年、美術学校卒業後イギリス留学。 42年フランスに渡り、43年帰国。同年第4回文展に滞欧作を出品し三等賞受賞。続く第5回と6回展で連続して最高賞の二等賞受賞。その後も受賞が続き、大正5年から文展・帝展の審査員を務め、昭和4年には帝国美術院会員となる。昭和7年から18年まで東京美術学校教授。昭和19年帝室技芸員。戦時中郷里に疎開し、戦後も広島に留まる。

 

 3)小植草悦;明治18年(1885)〜没年不詳。栃木県今市の生まれ。本名・永次郎。明治41年、東京美術学校西洋画科を卒業。南薫造は一年上級。平福百穂に師事して日本画に転向。昭和6年第12回帝展に《竹雁》(二曲一隻屏風)が入選。その後、日本美術院に属し、昭和9年の第21回院展と昭和11年の第23回展に人選。桐生倶楽部役員の大川英三とは親戚。昭和12年、大川氏によって発行された『草悦作品第一集』が倶楽部に現存。

 

 4)赤城泰舒;明治22年(1889630日〜昭和30年(1955131日。静岡県に生まれる。沼津中学を病気で中退し、神奈川県葉山、次いで福島県塩川町に転居するが、明治39年上京して水彩両家・大下藤次郎の内弟子となる。明治42年、第3回文具に初入選、以後、文具・帝具・斯文具・日展に出品。明治44年の大下没後、大下が創刊した雑誌『みずゑ』の編集を担当。大正2年、丸山晩霞らと日本水彩画会を創立。大正10年から文化学院、昭和17年からは女子美術専門学校で教鞭をとる。

 

 5)岡田情縁;明治28年(18954月3日〜昭和41年(1966928日。山田郡毛里田村(現・太田市毛里田地区)の農家の三男に生まれる。本名・安次郎。足利工業学校卒業後、上京して小室翠雲に師事。大正11年、第2回日本南両院展に初入選。以後開展に出品。翌年の関東大震災で帰郷し、大正14年桐生市で結髪業を営む鈴木ハマと結婚し同市に居住。昭和2年第8回帝展に《清暁》が初入選。第9回、第11回にも入選し、第12回展で《刀水淵源》が特選受賞。以後、無鑑査で第13回、第14回、第15回展に出品。昭和16年結成の群馬美術協会会員。戦後の昭和22年に初個展。翌年第2回個展を桐生倶楽部で開催。24年の第3回 個展は本町5丁目矢野呉服店跡で開催。昭和26年の大晦日に脳溢血で倒れ、右半身不随となる。昭和41年、病状悪化し71歳で死去。墓は青蓮寺。

 

 6)牧島要一;明治30年(18971120目〜昭和51年(1976929日。大正2年旧制大田中学卒。東京美術学校西洋画科で岡田三郎助に師事。大正10年卒業。同期には前田寛治、伊原宇三郎、中野和高、鈴木千久馬など。昭和3年第9回帝展に《初秋》が入選。昭和16年結成の群馬美術協会会員。昭和13年から桐生工業中学(後の桐生工業高校)に勤務し、昭和39年退職。桐生工業短大でも昭和35年から38年まで非常勤講師を勤める。桐生倶楽部の歴代理事長や地元の名士の肖像画を数多く制作。

 

 7)正田二郎;明治40年(1907)〜昭和24年(19497月。新田郡綿打村(現・太田市)に生まれる。姉は婦人運動家・秋山伊都子、兄・太郎の子は画家の正田壌。旧制太田中学卒業後、群馬県庁に勤務。昭和6年第12回帝展に《M市公園》が入選。帝展審査員だった熊岡美彦に師事し、東光会にも出品する。第14回帝展、昭和11年文展、第1回と第3回の新文展、紀元2600年奉祝展、戦後の第3回日展に出品。昭和16年7月、桐生倶楽部で個展開催。同年9月結成の群馬美術協会役員。その後鬼石町で療養生活を送り、昭和24年、児玉郡神泉村で42歳の若さで病没。