平成26年2月25日桐生倶楽部
 桐生倶楽部創造の熱意と心

                       桐生倶楽部重要文化財特別委員会 委員長 大西康之

 私は飯山さんや木島さんに誘っていただいて元々憧れていた桐生倶楽部の社員になったことによって桐生倶楽部に縁が出来て、その時、桐生倶楽部の文化に惹かれました。倶楽部独自の文化祭、春のガーデンパーティ、クリスマスパーティ、新年の互礼会その他の事業が自然に行われていて将棋や碁や俳句や山歩きや絵やゴルフをやっている人たち、ビリヤードも2台あったという事で、建物と共に文化があったんですね。それで、この文化を創った人たち、そして、この桐生倶楽部を作った人たちに興味が移りました。

 そうしたある時、桐生倶楽部は国の重要文化財になる値打ちがあるといっているといわれたのです。

 それは文化庁の外郭団体の重要建造物修理保存協会の人からの話です。

 桐生には国の重要文化財の相生にある旧群馬県医学校・衛生所と彦部屋敷そして、県の重要文化財である天満宮がありますが、この三つの重要文化財の解体修理を伴う根本修理の責任者で来た秋山さんという人からです。

 それで、桐生倶楽部の人に知ってもらいたいと思いまして、桐生倶楽部の月次会でお話をしていただきました。勿論そういう正式な場所ではっきりした事は言いませんがそれでも、文化財の指定に付いて色々お話しを頂き、そして、桐生倶楽部の社員がこの建物を大切な文化財だと理解し元の姿を大切にして欲しいといわれました。

 私は、この時、国の重要文化財にという考えの目が開かれました。

 それが最初で、その次に、国の重要文化財にと思ったのは、建て替えを考えた時です。もう直ぐ10^O年を迎えて、先ほどの建造物修理保存協会の秋山さんがこの種の木造建築は100年をめどに改築を考えるべきだといわれた事を思い出したのです。

 このまま維持費が嵩みいつか崩れてしまうと考えると、どこかで大変なお金が掛かるし、今の桐生でそれだけのお金を出せる人はいないと考えると国の予算が付く国の重要文化財への道を考えなければと思ったのです。

 三つ目は、富岡製糸場と絹産業遺産群という世界遺産への運動での桐生です。

 私は、桐生の本町一二丁目の重要伝統的建造物群保存地区と共に桐生倶楽部の重要文化財への運動を連動させて.この二つが合わさった時、群馬の銅産業遺産群の値打ちを高めると思っていたのです。それで、桐生倶楽部の重要文化財への運動を考えたのです。それで、国の重要文化財にと思ったのです。

 それで、調べ始めて、桐生の歴史と比べながら、桐生倶楽部を創造した人たちのことを考えるようになりました。

 その後、作っていただいた重要文化財特別委員会での議論で桐生の歴史から浮かび上がる桐生は江戸時代以降日本を代表する商人の町のひとつとして、羽仁五郎に「フイレンチエと堺(大阪)と桐生は酷似している」と言わしめたように、桐生は典型的な自由都市であったことなど、次第に桐生倶楽部を作った頃の桐生人の情熱と熱意が分かってきました。
 ご承知の通り、桐生倶楽部は大正8単に桐生懇話会という織物関係の人たちが郷土桐生の発展を期して作られた会から生まれました。

 その桐生懇話会は明治33年に出来ていますが、その時の会員名簿と思われるものを見ると40名で、その記事に寄ればその75%が織物業者であると書かれていました。しかし、後の25%は10人ですがその内容を見ると、織物学校の教員が4人と書いてありました。この織物学校教員というだけでも織物関係者といえると思いますが、そのうちの金子竹太郎氏はこの後、両毛製織社長となり桐生倶楽部の初代理事長になり、前原悠一郎氏は教員の後、日本絹燃株式会社の社長になり、桐生倶楽部初代副理事長になっています。このお二人は今桐生倶楽部の庭に胸像があります。
 そのほか銀行員が2人、呉服商が2人です。呉服商はともかく銀行員は織物業者でないというかもしれません。しかし、その銀行員は、桐生に銀行の本店を持ってきて、その専務に早稲田出身の秋田氏を起用しましたが、その秋田氏
と銀行を桐生に引っ張った桐生の森宗作氏などの織物関係者で懇話会を作る相談をしたということですから、銀行員といっても織物業界が桐生に連れてきた銀行の人です。後で本店となった第一勧業銀行跡地には大きな織物の担保倉庫があったということからも、当時の銀行は織物関係者が中心の銀行であったといえると思います。この群馬発見繕遺産の中に大間々銀行(コノドント館)が
入っています。それで、これを織物関係者と見れば織物関係以外とはっきり分かる人は質屋と乾物商がー人ずつだけでした。その内質屋は但し害きに織物協同組合顧問役と書いてありますし、乾物屋さんも織物関係業者が得意先ですから、いわばほぼ100%織物関係者で作られていたといえると思います。
 そういう人たちの中で大正4年1月桐生倶楽部設立案が出て大正5単にその織物業者の中心森宗作氏が5,000円を現金で寄付して、その後、120人くらいの人が寄付し、それを元に借り入れも起こして大正5年に設計図が出来て、建設を決め大正8年12月に出来たのです。この間に桐生懇話会は財団法人桐生倶楽部になっています。

 桐生倶楽部会館は、私は絹産業遺産だと思いますが皆さんはどうでしょうか。

 今申し上げましたことは、桐生倶楽部を作った人たちの熱意と共にもうひとつのことをお話ししようとして申し上げました。それは、実は、今お見せした最近作られたこの群馬発見絹産業遺産という冊子に桐生倶楽部が載っていないからです。先ほど申し上げましたように桐生として本町一二丁目の重要伝統的建造物群と共に桐生倶楽部をきちんと評価し、他の桐生の産業遺産とあわせれば、明治に出来た富岡製糸場に対し桐生の絹産業遺産群を群馬の絹遺産の双璧とする事が出来ると考えて、桐生倶楽部は絹産業遺産だと申し上げたのです。
 話は森宗作氏に戻りますが寄付された五千円は最初予定された建物建設費は2万5千円のようでその5分の一の金額です。しかし、実際には建物建設費は三万五千円掛かったと書いてあります。当時、この建設に関して「どうせ足りない予算なら、裸になって出しても良いから、良い方の設計でやろうじゃないかと書上さんなども張り切っていた」とかかれています。

 こんな相談をしていた桐生懇話会は、それ以前から商工案内1500部、桐生停車場改築運動、通信機関の設置、電話設置、電力問題などの問題課題の解決のために働き、後で出来ますが、撞球場(ビリヤード)の設置、商工会議所の設置なども議論されました。そして、財団法人桐生倶楽部を作ったのです。

 翌年大正9年には敷地内に飼葉軒という洋食レストランが作られました。

 築地精養軒の応援を得て、シェフ、銀の食器、タキシードの給仕と本格的なレストランで、大正9年に桐生では本格的な洋食が食べられていたのですから凄いですね。これで思い出すのは、先ごろ亡くなった小池久雄さんですが、小池さんは仲町で飲むのと同じようにニューヨークでもはしごをしていたそうですが、桐生の人にはこんなエピソードがまだありますが、桐生織物は世界中隈
なく売られているのはこのような町の事情によるといえますでしょうか。

 これらの記述は多く桐生倶楽部の50年史から拾い出しておりますが、50年時の理事長は川村佐助さんですがその挨拶で「こんな立派な会館を持つ倶楽部は、地方都市には皆無といってよい現状で、50年もの歴史を持ち、しかも現代人にすら誇りうるこの会館を、建ててくれた先人先覚者に対して、私はどうしても守り通さねばならないという強い信念に燃えたのである。

 大きく言えば、やがてば日本の貴重建造物“の一つにもなりかねない倶楽部会館を持つわが桐生倶楽部は、倶楽部を作り会館を建ててくれた、先人諸先輩の霊に対し、大きな感謝を表すると同時に明確にするためにも、この会館を護り栄光あらしめる。」と述べています。

 この50年史で桐生倶楽部は桐生の人の茶の間であると共に桐生の客間でもあると述べています。ものすごい著名人がこの桐生倶楽部に招かれています。

 書上さんほどの屋敷を持った人でもごく個人的な人のほかは桐生倶楽部に客を案内し接待したといっています。倶楽部精神を明示したシャンデリア平和・幸福・親睦PHFも今の我々にも大切な事を語りかけていると思います。

 さらにこの50年史から、建設当時の人たちの事を拾い上げてみますと、書上さん本人の言葉セ、高等工業学校のためばかりでなく「桐生の相当の家庭の師弟であった金子竹太郎、前原悠一郎、前原準一郎諸氏が蔵前を出てきたが、こういう人たちを放っておけば必ずや中央に出て行ってしまうだろう。桐生の産業発展のためにあの人たちの足を桐生に留めなければならぬというので、桐
生の有志の諸君が両毛製織や桐生機械などを建てたんですね。」と述べています。書上さんはそのほかにも、倶楽部の具体的問題になりますけれども、集まって相談する所がないんですね。料亭より他になく、行けば一杯のまないわけにはいかない。高等工業の場合にしても、女学校の問題にしても教育問題を議するのに芸者を呼ぶような席上で相談をするということははなはだ面白くない。そ
れには社交倶楽部を建てたらどうかという案が、その時、森宗作氏から出たんですそれは結構だというのでやろうということになりました。と述べています。

 「この場所も森さんの意見から出たんです。桐生駅から人力車で行くと本町通りからー丁目に向うわけだが、そこから今泉の竹やぶが見える、いかにも桐生が田舎町らしく見える。だから目隠しにもなるからここを選んだ。」と述べてい
ます。凄いですね。本当に町の人たちの力で出来た事がわかるエピソードですよね。こうした行動について森宗作氏はまた別に「郷土の発展はやがて自己の発展であると述べています。

 自分の子どものためでなく、金子竹太郎、前原悠一郎、前原準一郎氏などの名前を挙げて郷土の発展を進めましたが、その言葉の元の考えとして「郷土の発展はやがて自己の発展といわれ、それを実践されました。

 その後の時代で特筆すべき事は、戦争中の供出、それから接収ですね。倶楽部は日本軍部からも接収の力が掛かり、占領下でも、戦勝国の接収の力がかかりましたが、そのどちらも徹底して接収を拒んだ事が伝わっています。

 もし接収されたら、今の桐生倶楽部もその伝統もなかったと思われます。

 作った人々の強い思いが伝わっていて、それで、接収を拒んだ人たちも同じ気持ちで護ったと思われます。しかし、建設当時順常でい多額な1万1千5百円も掛けた室内装飾品であるシャンデリア、伝説の銅鎌、ドアノブまで調度品を持ち去られたと残念がっています。どれほど凄かったのでしょうか。

 この建物を設計施行した人は、清水巌という今の清水建設にいた設計者が桐生倶楽部を契機に独立したという建物で、当時、ニューヨークの山中商会主催日米共同住宅設計コンクールの第一等当選者で、講談社の野間清治社長からの
紹介だったという事です。

 この建物の様式は「ス八二ツシュ・コロニアル様式」で、元々はスペインが植民地の租界に建てたスペインの力を示した建築様式ですが、スペインの租界でない中国の上海にも幾つか見られたいわゆるコロニアル様式の代表的な建築様式です。それが大正4・5年ごろからアメリカで住宅として宣伝され始めましたが、大正5年には桐生倶楽部として設計されて大正8年には出来ていて、
ほとんどアメリカと同時に始まった日本で最初のスパニッシュ・コロニアルの建築物なのです。それがどうして桐生の人たちに認められたかを考えると、アメリカで流行する前から桐生の人たちは上海などでその建物を見て憧れのような気持ちを抱いていたからではないかと私は思います。そうでなければ見て直ぐ賛成したという気持ちを理解する事はできません。その事こそ、私は当時の桐生
人の凄さだと思います。その後、日本で今に至る桐生倶楽部に代表されるスパニッシュ・コロニアル様式の膨大な建設数を考えると、日本に明るさを与えたとも言える建築様式の一普及に桐生倶楽部が与えた影響を考えると、改めて桐生倶楽部は極めて大切な国の重要な文化財だと私には思えるのです。

 今は、あと4年に迫った100周年に合わせて桐生市の文化財、群馬県の文化財への運動を進めていますが、その後、本当の所、国の重要文化財になるかどうかは分かりません。

 しかし、この富岡製糸場と絹遺産業遺産詳運動と関連できれば可能性は強まると私は考えているのです。それは、市と県と持ち主が正式に文化庁と対面して初めて審査するからです。県市の意欲が大切なのです。

 申し上げましたぐんま発見絹遺産というガイドブックには全部で78の施設と桐生新町伝統的建造物群保存地区などが載っていますが、桐生市は78中18で全体でも断然トップですが東毛地区では20の内の18です。この18箇所の登録には文化財保護課は努力しました。そして絹撚事務所を残したのも文化財保護課でした。今まで何度か絹撚事務所のことを申し上げましたが、明治
時代桐生の織物関係の3大工場といわれた日本絹撚、両毛製織、桐生機械は、今は、両毛製織はなく、織機など織物関係の機械を作っていた桐生機械も足利に移ってしまっていて絹撚事務所しか残っていないからです。

 今桐生でこの三つの会社の事を言っても、日本絹撚も両毛製織も桐生機械も桐生にないので、知らなかったり、なくなったりの会社じゃないか、と、これらの企業やこの人たちの力をそれほど評価しない人もいます。

 しかし、日本絹撚で見れば、最初、模範工場として国に機械を借りて始めました明治35年に3万円の資本金で始めましたが、大正12年には337万5千円の資本金の会社に育て上げています。100倍の会社にしています。社員旅行も大正10年
700人と書かれています。絹撚記念館の資料を見れば工場が延々と続く大工場でした。戦争に入るまでは十分な力を持っていたのです。

 しかし、昭和19年非戦力産業であるとされ陸軍参謀本部の命令により接収され中島飛行機となり、追い出されて戻れず、荒れ放題になっていました。

 両毛製織も接収されて廃業し、戦後ついに廃墟となりました。

 地方都市であれだけの大きさになればなったことによって接収され、そして、そのために廃業に追い込まれたり、戻ることは出来なかったりしたのです。

 色々申し上げましたが、明治から大正の桐生の織物関係者が両毛製織、日本絹撚、桐生機械の3社とも若い人を桐生に残すため森宗作さんたち金子竹太郎さんは33,4歳でしたが、金前原悠一郎、前原準一郎さんは20代の若い人を代表にして会社を作りました。
 そして、この桐生倶楽部も若い彼らに任せたのです。

 すでに死を意識した年齢の森宗作さんを始めとする桐生人が桐生の町のため会社を作り、桐生倶楽部を作り、それらを若い人に引き継ぎました。

 しかし、それも、当時ここに書いていない多くの仕事を含めた膨大な仕事の中のひとつとして桐生倶楽部であったと分かりました。

 私たちは、せめて、その伝統に習って桐生倶楽部を次の世代を開く人材を育てる元として後世に引継ぎ、その心意気を伝えて行きたいものだと考えますがいかがでしょうか。皆様と共に、国の重要文化財か或はそれに匹敵する方法を見つけていければと思います。